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東京ローズの暗号 1/2

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以下は暗号 ? ウラと闇の話=すべて八百長の話です。


3月10日東京大空襲/東京ローズ:

Platters - Smoke Gets In Your Eyes

https://youtu.be/57tK6aQS_H0?list=RD57tK6aQS_H0


真珠湾攻撃/ハワイ放送:

目ン無い千鳥/島倉千代子

https://youtu.be/FHCBc4wj_Kc


昭和20年8月6日、広島に原爆/東京ローズ:

Doris Day - Sentimental Journey (remastered)

https://youtu.be/0ycj2SwFG3w

 

鬼塚英昭氏の『白洲次郎の嘘』には、この柴田哲孝氏の『異聞 太平洋戦記』が引用されている。そして柴田氏が解明した昭和20年3月10日の東京大空襲も、真珠湾攻撃も、広島への原爆投下もみな八百長だったことを解明していることを紹介している。

「センチメンタル・ジャーニー」と「目ン無い千鳥」の秘密

http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-270.html 

3月10日東京大空襲は事前に日本側に「ヨハンセン・グループ」を通じて軍部にも連絡されていた。日本側は東京ローズの謀略放送(ということになっていた)で、当日夜に「煙」とか「炎」とかの言葉が入った音楽を流した(「煙が目にしみる」「世界を火に包まないで」「過ぎ去りし日の恋の炎」)。それは、安心して低空飛行で爆撃に来ても大丈夫ですよ、日本の戦闘機は迎撃しません、という合図=暗号だったのだ。

真珠湾攻撃のときは、アメリカのハワイの放送が、昭和12年12月8日未明(日本時間)普段は絶対に流すことはあり得ない日本の歌謡曲「目ン無い千鳥」の歌をニ度も流したのであった。その歌を合図に、日本軍機が全軍真珠湾に突撃して行ったのだ。アメリカ軍は迎撃してこないという暗号だったのである。

 もうひとつは昭和20年8月6日、広島に原爆を落とすためにテニアン島から飛び立ったエノラ・ゲイ機に対して、東京ローズは「センチメンタル・ジャーニー」を流し続けていた。つまり原爆搭載したB29が低空で侵入しても、日本軍は迎撃しませんという合図であった。

コンプラドール=こころの痛みを感じない者たちが日本のリーダーになってきた。今も同じだ。彼らは操り­人形なのである。

日本の真相6 操り人形がリーダーをする日本

https://youtu.be/wlfyvOL-OVg


ウラと闇の話=八百長についての話が続きます。 いまの福島と原発利権さらには集団的自衛権にまで真っすぐにつながっていることです。

日本の真相 鬼塚英昭

日本の真相1 明治天皇すりかえ

https://youtu.be/qZve5N-_doI

日本の真相2 仕組まれる戦争・皇室スキャンダル

https://youtu.be/_YfXIhybq5U

日本の真相3 天皇のための戦争・天皇は内通していた

https://youtu.be/eugXzHoKnes

日本の真相4 こじつけの天皇無罪論

https://youtu.be/34HEcM9qvqc

日本の真相5 すべての戦争は八百長である

https://youtu.be/kIXzkY8VtLU

日本の真相7 超天才の悪魔

https://youtu.be/1ToSe8A7_wE

日本の真相8 中曽根、正力工作員の原発

https://youtu.be/TuVjmXdufS4

日本の真相9 原発・使い捨て人形からの反乱

https://youtu.be/3glGABd52fk

 

嘘八百のこの世界 から

「太平洋“八百長”戦争の真実、東京ローズと売国奴連中」

前回紹介した犬塚氏は「もし山本元帥メーソン説を主張する人があるなら、どこで、いつ、何という結社に加盟したか?確かな資料を明示して頂きたい。」と述べて、「山本五十六メーソン説」を否定している。メーソンとは関係ないが、「山本五十六の死の真相及び、真珠湾攻撃・原爆投下の真相」について書かれた記事を転載する。「太平洋戦争の舞台裏」については記事にしたが、「太平洋戦争のもう一つの舞台裏」を学んで下さい。
八百長戦争で奪われた尊い御霊を弔うためにも、我々が新たな謀略に嵌らないためにも、我々は真実を知っておく必要があると思います。

(心に青雲)さん
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/386574435.html
2014年01月31日
山本五十六の怪死の謎(1/2)

《1》
 山本五十六は1943(昭和18)年4月18日、ブーゲンビル島上空において米陸軍戦闘機隊に待ち伏せされ、搭乗していた一式陸攻が撃墜されて戦死した、…ことになっている。「海軍甲事件」と呼ばれる。

 これまでにもその死に疑問が呈せられてきはきたが、ほぼ解明の決定版と思われる書を読んだ。柴田哲孝著『異聞 太平洋戦記』(講談社)に収録された短編「ブーゲンビル日記」がそれである。

 柴田氏のこの本は「事実に基づいたフィクション」となっている。つまり生存者や遺族に配慮して、実名は変えられていても、事実を踏まえている。
 「ブーゲンビル日記」は、当時、ブーゲンビル島に進駐していた陸軍部隊の衛生兵が密かに書き遺してあった、山本長官の捜索活動を記したものを、“私”が偶然発見し、それを基に追及していく筋立てである。

 山本五十六は昭和18年4月18日、南方戦線視察の名目で、ラバウル航空基地を発ってソロモン諸島のバラレ飛行場へ向かう途中のブーゲンビル島上空で敵戦闘機16機の待ち伏せにあった。
 一式陸攻2機に、視察団として山本五十六、宇垣纏参謀長ら9名が搭乗し、零戦6機の護衛をつけて離陸している。
 山本の搭乗した一式陸攻は撃墜され、ブーゲンビル島のジャングルに落ち、宇垣参謀長の乗った機は撃墜されたが海上に落ちたため、宇垣らは重傷を負いながらも助かった。 

 ブーゲンビル島には陸軍と海軍部隊が駐留していたので、すぐさま陸海軍共同で捜索が開始された。墜落地点は海軍機がすぐに発見し、陸上捜索隊に知らせたが、なにせジャングル内のことで捜索は難航を極めた。1時間でわずか数百メートルしか進めない。支那から転戦してきた部隊が持つコンパスはジャングルのなかでは役に立たず、多くの捜索隊グループが出されながら、なかなか現場に辿りつけなかった。

・・・・

 しかも、公式記録では銃創を認めているが、米軍P38戦闘機が装備していた機銃は20ミリ機関砲である。この弾が肩から頭に抜ければ山本の頭部は首から上が木っ端微塵に吹き飛んでいたはずなのである。
 「ブーゲンビル日記」の衛生兵の証言では、射入口は約8ミリ、射出口は約15ミリの貫通銃創である。小口径の弾である。戦闘機の20ミリ機銃弾に当たっていればこんなことではすまない。これは明らかに日本軍の拳銃で撃たれたことにしかならない。

 よく戦争映画なんかでは、戦闘機どうしの空中戦で、敵機に撃たれたパイロットが血を流しながら、友軍機に手を振りながら墜落したり、敵艦に最後の力を振り絞って敵艦に突撃したりするシーンがあるが、20ミリ機関銃弾が当たれば、そんな余裕があろうはずがなく、瞬時に木っ端微塵になる。

 つまり、山本長官は撃墜されながらもかろうじて生きていて、機外に出て救援を待っていたのであろう。山本とそばで息絶えていた軍医長だけが、他の戦死体にすでに蛆がわいて腐乱していたにも関わらず、さして蛆も発生しおらず、腐乱していなかったのであった。「遺体の状態はおおむね良好」となっている。
 これはつまり、最初に19日夕方に浜砂少尉の捜索隊が発見したときには、山本は生きていた可能性が高いのである。
 
 またブーゲンビル島に駐留していた陸海軍の部隊は幾つものグループを組んで捜索に出ているが、いずれも難航し、どうもわざと発見を遅らせた気配があるが、その詳細は省略する。

 そして銃創のありようからすると、山本は自殺したのかもしれなかった。すなわち介錯する誰かが左後ろ側に立って拳銃で心臓を撃ち抜くという古くからの武士の自決作法どおりの処置をしたのだということになる。
 あるいは、死後の身体に拳銃を撃ち込んだかであろうと…。

 山本の前線視察には不可解なことが多い。そもそも連合艦隊司令長官が参謀長とともに最前線に視察を行なう意味がまったくない。常識では考えられない。
 山本は部下が引き止めるのを振り切って危険極まる視察に出かけた。

 しかも、そのときの軍装がおかしい。山本は視察や訓示などの公務のときは純白の第2種軍装を好んだ。普段は紺色の第1種軍装があったがこの日にかぎって、山本は普段嫌っていた第3種軍装(陸戦隊用の濃緑軍服)を着ていた。
 同行する他の参謀や幕僚たちは純白の第2種軍装だった。

 ・・・・

 この「イ号作戦」の間に参謀長らの視察計画が持ち上がり、たまたま連合艦隊司令部がラバウル入りしたときで、山本も「自分も同行する」と言い出して実現した、ということに戦史ではなっている。
 視察空域は敵の妨害がないから安全と判断したことになっているが、とんでもない、現地の基地は再三B24爆撃機の空襲を受けていた。
 それを承知で宇垣は安全と判断し、山本も決行の意志を曲げなかった。ここに謎がある。

 それに、連合艦隊司令部は視察する方面の基地に暗号を用いた無線電報で連絡をとった。傍受されている可能性が指摘されていたにも関わらず、こんな最重要事項の連絡に無線を使ったか、これが第二の謎とされる。
 当然、航空機による書簡通達で連絡をしなければならなかった。なのに司令部は「技術的に見て被解読の虞れは絶無である」と判断している。呆れてものも言えない。

 実際、米軍はこの無電を傍受し、ただちに解読に成功している。4月13日午後5時である。米側は山本を討ち取る決定をし、15日には現地の指揮官ハルゼイに通達された。
 4月18日に待ち伏せする作戦を立てたが、米軍はその待ち伏せ地点であるブーゲンビル島を16~18日にかけて3日間も空爆を加えている。いったいどういう真意なのか。

 現地が敵側の攻撃にさらされているとなれば、日本側は山本の視察を中止してもおかしくなかった。待ち伏せて討ち取るチャンスが消えてしまう。にもかかわらず米軍はさして意味があるとも思えない空爆を敢行した。
 なにがあろうと山本は視察する、やってくる、とアメリカ軍はわかっていたということである。
 それはなぜなのか…。

 (つづく)



http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/386661800.html
2014年02月01日
山本五十六の怪死の謎(2/2)
《2》
 柴田哲孝著『異聞 太平洋戦記』の謎解きは以下である。

 一つの仮説としては、山本は撃墜されながらも生存していた。だが発見に手間取った。翌日の19日までは腐敗の状態から言って生きていた可能性がある(なにせ熱帯の密林に屍体が放置されれば…)。だが発見は20日ということになっている。救出活動が迅速だったら助かったかもしれないのに、だ。この失態が露呈すれば海軍だけでなく軍部の面目が失墜する。そこで山本の遺体にあえて銃創をつくり、敵機の機銃によって機上即死の状況証拠を捏造したのだとするものだ。

・・・・


 また山本機を撃墜した米軍パイロットの弟が捕虜になったため、報復されないように、と説明しているが、この弟が捕虜になったのはアメリカがニュースを発表してから1カ月後のことだったから、説得力はない。

 さらに以下引用する。

  *    *

 なぜ山本長官は、自らバラレ、ブイン、ショートランド方面への視察に行くといいだしたのか。なぜ現地との連絡に、傍受解読の危険のある暗号無線を用いたのか。なぜ米軍のニミッツ長官とハルゼイ大将はワシントンと頻繁に連絡を取るなど、必要以上に慎重に対応したのか……。

 考えてみれば、太平洋戦争は最初からおかしかった。なぜ真珠湾奇襲攻撃の指揮を、親米英派として知られ日米開戦に反対だった山本五十六が担ったのか。あれは奇襲作戦でも何でもなかった。米軍は事前に情報を入手し、当時のルーズベルト大統領も知っていたことはすでに歴史的既成事実だ。実際に山本長官は空母が1隻もいない真珠湾を攻撃し、アリゾナやオクラホマなどの老朽艦だけを沈め、米太平洋艦隊の生命線である400万バレルの燃料備蓄タンクや修理ドックは破壊しなかった。
 その後のミッドウェイ海戦やイ号作戦も同じだ。すべてが、日米のシナリオどおりだった……。

 “私”は、ひとつの仮説を立てた。山本五十六の死の謎も、同じなのだ。あの日……昭和18年4月18日……山本五十六と米側の間に、ひとつの密約があったのではないか。日米開戦から米側の反撃に至るまで、すでに山本五十六の連合艦隊司令長官としての役割は終わっていた。その山本長官を、米側に亡命させる計画が存在した。

 ジョーカーは、最初から米国が握っていたのだ…。
 そう考えればすべての謎は解ける。山本長官は、あの日に限りなぜ第三種軍装を着用したのか。それは米側に対する「亡命を受け入れる」という意思表示だったのではないか。

 16日から18日早朝にかけて米側がブイン周辺を空爆したのも、山本長官の回収を前提とした予定どおりの作戦だった、実際には日本側は駆逐艦などの主要艦を、ブイン港から離れた海域に避難させている。もちろん山本長官も、その意味を知っていた。だからこそ、“安全”であると判断した。

 考えてみれば、当初米側が立てた「山本が海上にいる時に駆潜艇を狙う」という作戦も奇妙だ。確かに山本側には、バラレからショートランドに駆潜艇で渡るという予定が組まれていた。だがこの予定は、不思議なことに、バラレ司令部には知らされていなかった。それをなぜか、米側は知っていた。すべては海上で山本長官を回収する計画であったと考えなければ、辻褄が合わなくなる。

 だがハルゼイ大将とルーズベルト大統領は、直前で作戦を変更した。すでに、山本五十六の役割は終わった。それならば、生きたまま“回収”する必要はない。ブイン上空で山本機を撃墜し、抹殺する決断を下した……。
 山本機が撃墜された時点で、すでに海軍の上層部は事の次第に気付いていた。そうなれば、かえって山本長官に生きていてもらっては都合が悪い。そこであえて墜落地点を隠し、南方のジャングルに不馴れな陸軍の部隊(第六師団は1月にブーゲンビル島に派遣されたばかりだった)に捜索を依頼して発見を遅らせた。陸軍が、南方では使い物にならない磁石を持っていたことも知っていた。(山本の)手帳の内容を気にしていたのも、そのためだ。

 確かに山本五十六は、墜落した時点では生存していた。彼は1式陸攻から外した座席に座り、右手に軍刀を握りながら、何を考えていたのだろう。その横には、やはり生き残った高田軍医長がいた。
 山本長官は、知っていたはずだ。アメリカに、裏切られたことを。そして、すべてが終わったことを理解していた。最後の賭けに負けたのだ。もし山本に自らの命を断つ理由があるとするならば、他には考えられない……。

   *    *

 鬼塚英昭氏の『白洲次郎の嘘』には、この柴田哲孝氏の『異聞 太平洋戦記』が引用されている。そして柴田氏が解明した昭和20年3月10日の東京大空襲も、真珠湾攻撃も、広島への原爆投下もみな八百長だったことを解明していることを紹介している。

 3月10日東京大空襲は事前に日本側に「ヨハンセン・グループ」を通じて軍部にも連絡されていた。日本側は東京ローズの謀略放送(ということになっていた)で、当日夜に「煙」とか「炎」とかの言葉が入った音楽を流した(「煙が目にしみる」「世界を火に包まないで」「過ぎ去りし日の恋の炎」)。それは、安心して低空飛行で爆撃に来ても大丈夫ですよ、日本の戦闘機は迎撃しません、という合図=暗号だったのだ。

 真珠湾攻撃のときは、アメリカのハワイの放送が、昭和12年12月8日未明(日本時間)普段は絶対に流すことはあり得ない日本の歌謡曲「目ン無い千鳥」の歌をニ度も流したのであった。その歌を合図に、日本軍機が全軍真珠湾に突撃して行ったのだ。アメリカ軍は迎撃してこないという暗号だったのである。

 もうひとつは昭和20年8月6日、広島に原爆を落とすためにテニアン島から飛び立ったエノラ・ゲイ機に対して、東京ローズは「センチメンタル・ジャーニー」を流し続けていた。つまり原爆搭載したB29が低空で侵入しても、日本軍は迎撃しませんという合図であった。

 これを解明した柴田氏はすごい。
 そして鬼塚氏はこう解く。
 「山本五十六は天皇裕仁、牧野伸顕らから、真珠湾攻撃における八百長工作を持ちかけられ、受けざるを得なかった。近衛文麿から東条英機に急に首相が替わったのも、天皇の作戦を東条英機が忠実に実行すると約束したからである。
 
 なぜ「目ン無い千鳥」の歌なのかは、たぶん、山本五十六の愛人がこの歌を好きだったからではないか。山本五十六はヨハンセン・グループから金を貰い続け愛人を囲う身分になっていた。
 山本五十六は愛人と最後の夜に酒をくみかわし、二人してこの歌を唄ったのではなかったか。それでアメリカに、この歌を流すように頼んだ。」

 鬼塚氏は東京大空襲も広島原爆投下も、ヨハンセン・グループがNHKを利用して無条件にアメリカ側に流させたと言う。
 ヨハンセン・グループとは吉田茂、白洲次郎、牧野伸顕、松本重治、牛場知彦、貞明皇太后、樺山愛輔さらには天皇裕仁を巻き込んだ売国奴の連中を言うのである。彼らはユダヤ国際財閥が仕掛けた戦争に協力して、日本を敗北させるべく暗躍したのである。
 
 ならば、山本五十六はアメリカから裏切られ捨てられただけでなくヨハンセングループからもはめられ、殺されたのかもしれなかった。もしかしたら、勝手な妄想かもしれないが、山本機を撃墜したのは米軍ではなく、日本の零戦か、山本を誘い出したのは生き延びた宇垣纏参謀長だったかも…。

 山本の遺体が荼毘に付されたのは、4月21日、検死後に秘密裏にジャングルの中で行なわれた。立ち会ったのはごく少数の司令部の首脳のみであるのも異常である。何かを隠す必要があったとしか思えない。

 ブーゲビル島の密林で、救助を待つ山本を射殺したのが日本軍特務機関員だとすれば、この者はヨハンセングループなりヒロヒトからの指令で実行したのかもしれない。
 柴田氏の「ブーゲンビル日記」によると、山本長官の捜索に当たった部隊の将兵はその後、みんな激戦地に送られほぼ全員が戦死している。これも異常な措置であった。上層部がなんとしても口を封じたかったのである。現地での目撃者たちを生かしておいては困るもの、その最右翼はやはりヨハンセン・グループなのではないか…。

 

るいネットさんのサイトより

1944年ブレトンウッズ会議に日本から出席していた人物とは・・・・・①~④

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1888783.html

昭和天皇こそが正真正銘の売国奴

http://www.amezor.to/shiso/070716000101.html

1945年、第二次世界大戦に敗北した日本に米軍が上陸して来る。

今後の日本をどうするか、米軍の指揮官ダグラス・マッカーサーとの交渉を担当したのが、当時の大蔵省事務次官池田勇人(後に首相)の部下、渡辺武であった。

渡辺の自伝である「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」(東洋経済新報社)によると、渡辺と米軍の最初の「大きな交渉テーマ」は、米国の銀行ディロン・リードに
対する日本と天皇一族の借金返済問題であった。

明治憲法第11条により、日本の陸海空軍全ての指揮権は天皇にあり、政治・軍事の全責任は天皇にあった。米軍が天皇の戦争責任を問題にせず、真っ先に銀行ディロンの代理人として借金の取り立てを行った事は、戦争の目的が金であった事、そして米軍が米国政府の代理人などでなく銀行ディロンという私的機関の「代理人」である事を良く示している。

しかも奇妙な事に、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロンから「借り入れ」ていたのだ。さらに貸し付けた側の銀行ディロンの社長が、米国の戦争省長官ウィリアム・ドレーパーであった。米軍の陸海空軍全ての指揮権を持つ戦争省長官ドレーパー本人が、敵国・日本の陸海空軍全ての指揮権を持つ天皇に
戦争資金を貸し付けていた。

 

【信じなくていい話】1944年ブレトンウッズ会議に日本から出席していた人物とは・・・・・

http://ameblo.jp/umaikome/entry-11376323700.html

2012-10-17 00:17:34 
テーマ:信じなくていい話

第2次世界大戦も終わりに近づいた1944年7月、アメリカ・ニューハンプシャー州の町ブレトンウッズで会議が開催され、国際通貨基金(IMF)国際復興開銀行(IBRD)の設立を決めました。
この会議にはアメリカ、イギリスはじめ連合国に属する国々の代表を中心に45カ国が参加しました。
この会議に日本からは「天皇陛下」が参加していたと言う話です。
対戦中の連合国の会議(=敵国の会議)にこともあろうか、日本の「天皇陛下」が出席していたのです。

この会議では、戦後の国際決済機構と戦禍によって疲弊したヨーロッパの戦後復興のための機関の設立が中心議題でした。
会議はアメリカで開催され、国際決済の基軸通貨がアメリカのドルに決定された事などは、WWⅡ後の世界的リーダーが大英帝国からアメリカ合衆国に交替した事を示 しており、ブレトンウッズの町こそがそれを象徴するものとして歴史的な名を刻んだ事になったのです。
IMF(国際通貨基金)とIBRD(国際復興開発銀行=世界銀行)はその後の世界政治・経済のフレームワークを形成するものとなった=第三世界を支配する金融システムが出来上がったとも言えるのです。
ソ連も代表団を派遣して会議に参加し協定に調印したが、最終的に批准はしなかったり、割り当てられた出資を拒むなどIMFには参加しなかったばかりか、先にIMFに参加したチェコスロバキアに圧力をかけ脱退させ、東欧諸国によるコメコンを設立したという経緯もあります。

ブレトンウッズの解説


さて、1930年から1940年代には、世界の金が米国に集中しており、アメリカは圧倒的な経済力を誇っていました。
当時はアメリカの豊富な金をもとに発行されたドルは、金と同様の価値があったのです。
そこでIMFは、金だけを国際通貨とする金本位制ではなく、ドルを金とならぶ国際通貨と決定したのです。(アメリカが世界を牛耳る発端となっています)
しかし1971年ニクソン大統領の時に、ブレトンウッズ体制が崩壊しました。
その背景は、1960年代のベトナム戦争への大量支出や対外的な軍事力増強の結果、大幅な財政赤字を抱え、国際収支が悪化して大量のドルが海外に流出してしまいました。
アメリカは、金の準備量をはるかに超えた多額のドル紙幣の発行を余儀なくされ、金との交換を保証できなくなりました。=金本位制の崩壊
ニクソンは8月に、金とドルの交換停止を発表し、金1オンス=35ドルの固定相場が崩れ、変動相場が始ったのです。
これによって直ちにスミソニアン体制に移行しましたが、スミソニアン体制でも、アメリカやイギリスの国際収支の悪化は止まりませんでした。
円はそれまで1ドル=360円だったのが、308円に引き上げられました。しかし、2年後には崩壊し、変動為替制度に変わって行ったのです。

このようなWWⅡの前後に世界の動きがあるのですが、さて、天皇陛下がなぜ戦争中に敵国の会議に参加していたのか?

一つは、戦争の終わらせ方
もう一つは、天皇の戦争責任について

この話がブレトンウッズ会議でもたれたと言うのです。
戦争の終わらせ方については、ポツダム宣言受諾へとつながって行きますし、ブレトンウッズ会議がどれだけ重要な会議だったかを理解するために、前半の説明に時間がかかりました。

1945年7月26日にポツダム会議で合意されたポツダム宣言では、日本の無条件降伏を勧告を宣言するとなっています。
1)日本国民を欺瞞し、世界征服の挙に出させた権力及び勢力の永久除去。
2)平和・安全・正義の新秩序ができ、戦争遂行能力の破砕が確認されるまで、連合軍が占領する。
3)日本の主権は、本州・北海道・九州・四国と連合国の指定する小島に局限される。
4)日本軍隊の完全な武装解除。
5)戦争犯罪人の処罰と民主主義的傾向の復活強化の障害の除去。
6)日本経済と産業の維持の保証、再軍備産業の禁止。
次ぎに、これらの目的が達成され、責任ある政府が樹立された時点で占領軍は撤退すると述べ、「我らは日本国政府がただちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、・・・右以外の日本国の選択は迅速かつ完全なる破壊あるのみ」と迫った。

そして、8月6日と9日に広島、長崎に原爆が投下され、8月10日の御前会議で「国体護持」を条件にポツダム宣言受諾を決定したのです。「国体護持」とは、天皇制を維持することです。
14日に最終決定を陛下がされ、「国体護持だけを条件」にポツダム宣言受諾を決定され即日玉音放送を録音し、15日に放送され終戦となったのです。 

この一連のシナリオは陛下自らが決定したと言うのです。
要は、広島と長崎に原爆を落とすことを決定したのは、天皇陛下だったという衝撃的な内容でした。

日本において、広島=呉=海軍港  長崎=海軍港  そうです、
両都市とも大日本帝国海軍の拠点です。
陛下は、戦争に向けて絶対的な権限を持っていて、言うことを聞かない海軍に閉口していたのです。
そこで、海軍港であった都市を指定したのです。
しかも8月6日は、軍部の将兵が広島に集結させられていたのです。
その命令は、天皇からの命令だったのです。

原爆を開発したのは、マンハッタン計画(1942年8月)によってです。
アメリカを中心とする極秘の原爆製造計画で、軍と科学者と産業界を総動員して進められた巨大軍事開発事業です。
投下決定は、44年9月19日に第2次ケベック会談で、ルーズベルトとチャーチル英国首相が署名した「ハイド・パーク協定」によります。
  
当初は、京都、広島、横浜、小倉を選定し検討に入りました。
しかし、1945年2月、米、英、ソ連の首脳によるヤルタ会談で、ソ連はドイツの降伏から3カ月以内に日本に参戦することを極秘に決めていたことが諜報活動で判明。
①アメリカはソ連の対日参戦より前に原爆を日本に投下し、大戦後世界でソ連より優位に立ちたいと考えていたのです。
②アメリカは原爆という新兵器を実戦で使い、その威力を知りたかったと同時に、マンハッタン計画で使った膨大な費用を正当化したかったこともあります。
③白人系以外の有色人種で核実験をすること
これらが、原爆を日本に落とした理由と考えられています。

しかし日本の戦後教育では、「WWⅡを早く終わらせるために原爆投下はやむをえなかった」と教育されてきたのでそう思い込んでいますし、天皇もそのような発言をされているのです。
ところが先ごろ発表されたアメリカ公文書館の戦史公開資料(「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」 )によると、1943年5月5日原爆投下目標地点を決定した政府の暫定委員会は、原爆が未完成にも関らず投下目標を「日本」と決めていたことになります。

おかしな話ではありませんか?

1943年5月の戦局と言えば、山本五十六長官ブーゲンビルで戦死したことになっている時期であり、ガダルカナル以降大東亜圏が連合軍の攻撃で縮小に向かう頃です。
この時期に原爆投下を日本に決めたとする理由がWWⅡを早く終わらせるための理屈が通る時ではないと思いませんか?
何故なら、戦争屋達は戦争が長引けば長引く程、儲かるのですから。

8月6日に海軍大臣米内光政は原爆投下を聞いてこともあろうに『天佑(てんゆう)だ!』と叫んだ。天佑とは《wiki》
原爆投下地を広島と長崎を決めたのは天皇自身です。
ブレトンウッズ会議でで事前に打ち合わせをし、原爆投下の日時・場所を決めた=戦争の終わらせ方を決めたのです。
広島には出来るだけ多くの兵士(3万人)や児童・学生(1万5千人)等の被験者が意図的に集められていました。
米国のスティムソン陸軍長官主導に日本の天皇が協力した一大イベントとが原爆投下だったのです。
実は、人体核実験でもあったのです。

世界のウラン鉱山のほぼ全てを独占するロスチャイルド財閥と配下の軍需産業関連会社(死の商人)は、WWⅡ後予定されていた米ソ二大国間の(八百長)冷戦による核軍拡競争と原子力産業によって上がる莫大な利益のため、どうしても核の脅威を世界に示す必要があったと言うのが真相なのです。

天皇がブレトンウッズ会議に参加した理由がさらに分かりやすくなるのは、
天皇家は巨大金融資本とつながっているのです。巨大金融資本とは、ワンワールド構想で勇名な「フリーメーソン」とも言われています。
WWⅡの戦費ですが、日本は戦争のための兵器購入資金を敵国の米国ディロン・リード銀行から「借り入れ」ていたのです。ディロン・リード銀行の社長は、J・フォレスタル国防長官であり、「日米安保条約」を策定した人物です。
また、副社長は陸軍次官のウィリアム・ドレーパーです。

アメリカの国防長官が社長を兼務している銀行が、敵国である日本軍の総指揮権を持つ天皇に戦争資金を貸し付けていたのです。

要は、日本とアメリカが戦争すればするほど、ディロン・リード銀行が儲かる仕組みだったのです。
ディロン・リード銀行やハリマン銀行の日本の代理人が天皇だったのです。

天皇は日本軍の兵器購入資金の一部を私物化し、スイス銀行に莫大な財産を蓄積したのです。

まだ続きがあります。
ディロン・リード銀行の親会社はブッシュ一族のカーライル軍事産業専門投資会社であり、ブッシュ一族が経営する銀行がハリマン銀行です。
アメリカと日本の兵器購入資金は、ディロン・リード銀行・ハリマン銀行・カーライル投資会社から出ていたのです。
このような立場の天皇に戦争責任を問うことはなく、WWⅡは東条英機以下軍部が全ての責任を負うという東京裁判で決着させたのです。

さらにさらに、マンハッタン計画において、ディロン・リード銀行の社員として現場で核兵器開発を指揮したのがデイヴィッド・カーママン。
このカーママンは、広島、長崎に投下する核兵器製造の専門家であると同時に、ニューヨークでディロン社の兵器を販売する商社カーママン&ウィットキンを経営していたのです。
このカーママン&ウィッキン社は、カーママンと昭和天皇が共同で設立した兵器商社だったのです。

※ディロン・リード銀行が株主となっているベクテル社は、世界最大の核兵器原料メーカーであり、ベクテルはパパブッシュが経営しています。

驚愕の真実ですから、どこも書きませんし報道しません。

参考:日本政府は原爆投下を事前に知っていた《youtube》

この話は、信じなくてもいい話です。

 

さてはてメモ帳 Imagine & Think!

東京ローズがささやいた「テニアンの秘密」

http://satehate.exblog.jp/9373582

アメリカ兵捕虜の予告 「八月六日、ヒロシマは焼け野原になる」

http://satehate.exblog.jp/9365812/

原爆投下は予告されていた by 黒木雄司

http://satehate.exblog.jp/9358512/

 

白洲次郎の父?ジグムント・ウオーバーグ

白洲は日本水産から帝国水産と異動して何をしたのか。調査室室長であった。彼は帝国水産という会社を利用し、イギリスとアメリカの諜報機関のために日本の機密を流し、また同時に、日本へ、特に皇室、ヨハンセン・グループ、軍閥、三菱……に情報を伝えていたのである。

白洲次郎のプリンシプルとは? by 鬼塚英昭 原爆ホロコーストへの道

http://satehate.exblog.jp/9332877/

 

食事をしながら名刺を出された、名刺には「白洲次郎」と書いてあった、確かステーキをご馳走になりました。次の日もその次の日もご馳走になりました。 

http://www.watanabeyukio.com/profile/tugounoiikoto2.html

 

 2014年02月04日

B-29東京大空襲の奇怪(1/2)

2014年02月05日

B-29東京大空襲の奇怪(2/2)

http://kokoroniseiun.seesaa.net/archives/201402-7.html

 

嘘八百のこの世界

「2006年の映画<オーメン666>は、3.11人工地震を予告していた!」

http://otisdury.blog.fc2.com/blog-entry-45.html

  


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